子供を評価する
こんなおこがましくて傲慢な行為は他にないと思う。本も出版したことのない国語の先生が子供にCをつける。お店を経営したことのない経営学の教授がテストを作って採点する。
そして点が取れなかった子供達はこう思う。
「こんな勉強して、将来役に立つの?」
と。
はっきり言う。役に立つ訳がない。
本当に役に立っていたら国語の先生は先生やっていないし、経営学の教授は大学でなんて教えてない。国語の先生は年間何冊も出版して芥川賞取る人気作家で印税生活を楽しんでるし、経営学の教授は自分で会社を設立して大金持ちになっている。
義務教育という言葉がある。
小学校から中学校までは勉強は子供の「義務」だと。
そんなに勉強が大事なら何故社会人になるまで義務にしない?
調べるとこう書いてある。
日本国憲法 26条で,国民の教育を受ける権利とともに,子女に普通教育を受けさせる保護者の義務および義務教育の無償制を定め,これを受けて 1947年制定の教育基本法4条で普通教育9年の義務を定めた。
つまり義務教育は子供のための法律でなく、放っておくと何も教育しない可能性のある駄目な「大人のため」の法律だということがわかる。
子供にとっての「義務」ならそもそも教育なんて義務にするものではない。何かをしたいから人は学ぶのであって、目的のない学習ほど無駄な時間はない。
子供にとっての規制は勉強だけに留まらない。
危ない遊びにも規制が入る。
昔公園にあったクルクル回る地球儀のような遊具は怪我人が多いからと完全に姿を消した。速度が出て危ない滑り台は角度を調整して緩やかなカーブにする。落ちたら危ない池には〝立ち入り禁止〟のフェンスをつける。
これで本当に安心なのは「大人」じゃないだろうか?
怪我して困るのは子供本人だ。
その子供達が「この遊具無くして欲しい」とか「フェンスをつけて欲しい」と言っているならまだわかる。
でも実際は違う。本当は怪我なんて本人にとっては大した問題じゃない。次は怪我しないようにどうすれば〝もっとスリルある遊びができるだろう〟と考えてる。でも怪我が治ってまた行ったら遊具が無い、池が無い。
こうして怪我をしない代わりに一番その子にとって大事なはずの「危機管理能力」が失われる。
危ない場所ではどうすれば怪我をしないように遊べるのか?どこまでなら安全に遊べるかの線引きの仕方が大人の都合で身に付かなくなる。
だからもっと安全なはずの遊具で怪我をするようになる。
するとその遊具も無くなる。次第に子供は外で遊ばなくなり家でみんなでゲームをする。それを見て親は言う
「ゲームばかりしてないで外で遊びなさい!」
と