彼女の家に遊びに行ったときの違和感。
なんとほとんど全ての家事を彼女独りがこなしていたんです。

「旦那さんが手伝ってくれないんじゃない、私が手伝わなくさせてしまったんだ」
彼女は現状を深掘りする中で、このワンオペは自分自身が生み出してしまった結果だと気づきました。それは彼女の中に「飯を炊くの女の仕事」という思い込みがあったからです。
だから旦那さんに聞いても、息子達に聞いても
「え、だってご飯って奥さんが作るものでしょ」と、さも当たり前かのように答えるようになってしまった。
シータヒーリングを通して、思い込みを書き換え「家事は家族全員で分かち合うもの」にしました。すると少しずつ息子達がご飯を作るようになったり、洗濯物を手伝ってくれるようになったんです。
これだけ聞くと簡単そうに思えてしまいますが、シータヒーリングは決して万能ではありません。最終的には面と向かって話し合わなければいけません。彼女は諦めずに夜遅くまで息子と語り合って、少しずつ歩み寄っていきました。
何故こんな話をするかと言うと、
ツインレイ(片割れ)も同じで、全てが最初から完璧なパートナーなんて存在しないということなんです。
ネットやyoutubeが〝ツインレイ〟〝運命の相手〟と騒ぎ立ててしまったせいで、「最高のパートナーさえ見つかれば幸せになれるはず!!」と夢見がちな人が増えてしまったように思います。
僕がこのカタワレ物語を書こうと思ったのは、そんなに甘くないぞと伝えたかったからなんです。
出会うことがゴールではなく、むしろ出会ってからが本当のスタートなのです。
どれだけ価値観が一緒でも
身体の相性のどれだけ良くても
何度も喧嘩するし
何度もぶつかり合うんです。
それでも、そこまでしても一緒にやっていきたいと思えるのは
やっぱり〝愛〟があるからなんです。
よく「自分が目の前の現状を作ってるなら誰がパートナーでも一緒」と言う人がいます。確かに全ては自分自身が写した鏡だとしたら、自分が整えばどんなパートナーでも最適化するのかもしれません…
でも本当にそうでしょうか?
そもそも2人の間に愛がなければ、壁にぶつかった時、喧嘩した時〝この人との関係を修復したい!〟という気力は起きるでしょうか。
カタワレ物語が一番伝えたいこと、
それは何があっても諦めない、諦められない
ぶつかり合ってもまだこの人と一緒にいたい
そう思えるのは全て
〝愛〟の力だということなんです。
つづく